名古屋城と二人の飛騨人

名古屋城誕生のきっかけ!?

実は名古屋城築城にあたり、徳川家康に進言をした飛騨人がいました。それは、萩町*城主の子である山下大和守氏勝(やましたやまとのかみうじかつ)という人物です。1568年4月6日、飛騨荻町城に出生し、壮年期には徳川家康に仕官しました。1607年、義直*の尾張藩入封*の際、軍備上のことなどから居城を清須(愛知県清須市)より名古屋へ移すよう家康に進言し、そのことが認められ名古屋城築城が決定したそうです。
このことは『飛騨偉人銘銘伝』に進言したのは氏勝と言われているとの記載がありました。
*萩町:現在の白川郷付近
*義直:徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主。山下氏勝は義直の臣下
*入封:土地を与えられて大名がその領地に入ること

『再発見名古屋』によると、当時は以下のような会話があったと考えられます。

~家康と氏勝の会話のシーン~

家康「城をどこに」
氏勝「大御所、清洲城は守りとしての条件は備わっています。しかし、この地はたびたび洪水におそわれ、いったん水攻めを受ければ兵糧にこと欠きます。また、城下はせまく、義直様の居城としては不適当と思われます」
家康「なるほど。では、そちはどうしろというのだ」
氏勝「修理をするよりも他の地に新しく城を築いた方が良いのではと考えます」
家康「ふむ。では、どこに城を築くというのだ」
氏勝「那古野城の跡地はいかがかと。ここは台地が長く南にのびて熱田の海に至り、北は沼地が深く自然の守りとなり東西の交通もひらけ、大軍を動かすにも都合が良いと考えます」

家康はこの城の重要性を考え、他にも小牧や古渡などの候補地をあげていろいろと協議させました。さらに、家康自身がわざわざ土地の検分を行ったそうです。その結果、名古屋に新しく城を築くことに決めたのでした。

 

歴史2

山下氏勝『飛騨偉人銘銘伝』より

名古屋城築城工事に携わった飛騨の大名

名古屋城築城にあたり1610年1月14日、将軍徳川秀忠*が西国の20大名に名古屋城普請(土木工事)の助役を命じました。これは徳川家康が敵方であった豊臣方の外様大名*に命じたもの。旧敵を監視し、徳川家への忠誠心を競わせる意図もあったと言われています。また、手伝いといっても費用はすべて自己負担ですから、財政を窮乏させる狙いもあったのでしょう。そこに駆り出されたのが、高山藩二代目藩主・金森可重*(かなもりありしげ)です。

*徳川秀忠:江戸幕府の第2代征夷大将軍
*外様大名:主に関ヶ原の戦いののち徳川氏に臣従した大名
*金森可重(かなもり ありしげ/よししげ):金森長近(高山藩初代藩主)の養子

『飛騨金森史』によると可重は、二之丸の一部の工役を担当したとのことです。1月に名古屋城の工事が始まると、大名たちの努力もあり12月には本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣の工事がほぼ完成したそうです。

ここまで解説してきたように、江戸時代においても名古屋と飛騨で関わり合いがあったことが分かります。歴史を紐解くとつながりや新たな発見をすることができますね。

 

参考文献)
松下千仁 著/株式会社濃飛展望 昭和51年8月25日『飛騨偉人銘銘伝』
高山市制50周年/金森公領国400年記念工事推進協議会 昭和61年5月31日第1版発行『飛騨 金森史』
愛知県の歴史 山川出版社 塚本学・新井喜久夫著『再発見名古屋』
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/index.html(20170920アクセス)
名古屋城:http://01.gatag.net/0001728-free-photo/(20170920アクセス)