吉野の山林王として財を成し 日本の未来を切り拓いた男、土倉庄三郎。

わずか15歳で、材木商人たちのリーダーとして才能を開花

全国有数の木材生産地として知られる奈良県。なかでも吉野地域で育てられたスギやヒノキは「吉野材」と呼ばれ、古くから最高級の建築材として人気を集めてきました。その歴史をたどってみると、今からおよそ500年前、室町時代にはすでに人の手による植林が行われていたという記録が残されています。

吉野山

吉野山

そんな吉野の地で、天保11年(1840年)、のちに「日本林業の父」と呼ばれる人物が誕生します。吉野郡川上村大滝の林業家の家に生まれた「土倉庄三郎(どくら しょうざぶろう)」です。

土倉庄三郎は土倉家の三男として生まれ、安政2年(1855年)には父に代わって家業に就きました。そして若干15歳で伐採した木材を運搬する時の監督役、「吉野材木方」を任されるなど、徐々にその才能を開花させていきます。

その才能を物語るエピソードの一つに、「宇兵衛騒動」があります。当時、吉野の材木商人の代表として、紀州藩と交渉する役割を担っていたのが、材木商人の組織である材木方の総代でした。そしてこの総代は、川上村から選ばれるのが習わしになっており、庄三郎が総代に就任するのです。そんな時に起きたのが宇兵衛騒動でした。

代官所と提携したある人物が、これまでの材木方の習わしを壊そうと動きました。すると、総代を務めていた庄三郎は、その人物の不正を見事に暴き、騒動を解決してしまったのです。当時の庄三郎はわずか16歳と言いますから、その類い稀な政治力には驚かされるばかりです。

林業で蓄えた私財を投じ、大学設立や自由民権運動を支援

土倉庄三郎

※奈良県 農林部 奈良の木ブランド課提供

その後、庄三郎は、吉野林業の発展に力を注ぎます。なかでも彼が生み出した「土倉式造林法」は、当時の常識を打ち破るものでした。それまでの林業は、「密植をすれば立派な木は育たない」と言われていました。それにも関わらず、庄三郎はあえて密植をし、木を間引きながら森林の混み具合を調整。そして、長い年月をかけながら、均一で細かい年輪の木を育てる技術を生み出したのです。その後、庄三郎が考え出した技術は、全国に広まり、日本の林業を大きく変えることになったのです。

そして、庄三郎の時代に生み出されたもう一つの新しい取り組みが「山守制度」です。江戸時代の終わり頃になると、吉野地域では山林の資源が減っていき、山林を維持するお金に困るようになりました。そこで考え出されたのが、山を所有する人(山主)と山を管理する人(山守)を分ける管理制度でした。

林業では、山主がどれだけ手をかけても、木が育つまではお金にならず、生活に困ってしまいます。そこで、山を所有する山主が財力のある有力者に山を買ってもらい、その有力者の代わりに手入れや木の伐採を行い、その分のお金をすぐに受け取れる新しい仕組みを作ったのです。そして、長い年月をかけて木が育った時には、山に投資した有力者も儲けることができる。今でいうところの「資本と経営の分離」の先駆けともいえる制度でした。

この新しい仕組みにより、山守は、木を育てることに集中でき、長い年月をかけて山を丁寧に作り上げることができます。山主と山守がお互いに信頼し、それが何代も引き継がれることで、上質かつ美しい吉野材が生み出されるようになったのです。

ちなみに、庄三郎の功績は、林業の世界に留まりませんでした。山林王として巨万の富を手にした庄三郎は、自らの財産を3つに分け、国、教育、事業に思い切った投資をします。同志社大学、日本女子大学の設立を支援したほか、板垣退助が推し進めた自由民権運動も後押しました。林業だけでなく、日本の未来をも変えた人物。それが土倉庄三郎だったのです。

【執筆者:平井基一】