目の前に障壁があっても、悲観せずに打開せよ
井上 光 (株式会社井上工務店 会長)
昭和40年、“飛騨の匠”の伝統を今に伝える「井上工務店」を創業した井上光会長。御年82歳です。岐阜県の旧上宝村(現高山市)で、8人兄弟の5人目として生まれ育ちました。大家族の家計を支えるため、中学生のころから5年ほど木炭を作っていたことも。そのために樹木を伐採するなど、山との関わり合いはこのときから続いています。けれど、本当は「教員になりたかった」と話す光さん。高校へ進学していく同級生に対する悔しさは、その先の人生における大きな熱源となっていきます。
幼いころから“ものづくり”が好きだった光さんは、家族一人ひとりの引き出しを取り付けたテーブルを手作りするほどの腕前だったそうです。そして19歳のとき、旧神岡町(現飛騨市)の宮大工のもとへ弟子入りを決意。後押ししてくれたのは母・ひろさんでした。人間に必要な衣食住どれかで手に職を付ければ食べていける、との親心があったからこそのもの。ここで5年間修行を積み、墨付けや刻みといった木材加工や建方など木造建築の技術を身に付けました。
その後、独立して「井上建築」を興し、大工3人で仕事を始めました。当時の自宅と向かいにあった家の修理を皮切りに、その周辺の家々からも修繕や新築を頼まれるように。「一つひとつの仕事を丁寧にやること。人を裏切らないこと」。そんな真摯でひたむきな姿が顧客との信頼関係を生み出し、そしてそれが会社を成長させていく一つの原動力となっていきます。こうして少しずつ会社を発展させ、次第に従業員も増えていきました。
昭和50年代に入ると、「かに道楽(現・札幌かに本家)」の店舗施工を受注。鉄筋コンクリート造の建物の中に木材を組み立てていくスタイルは、通常の構法で作ることができるものではありませんでした。難しい図面を見て誰も引き受けなかったほどです。しかし、光さんは手を挙げました。それは会社の未来を見据えてのこと。将来高山市の人口が減るのではないかとの予想から自社の仕事量が減少することを考慮し、全国に名を売る思いで英断したのです。そして、固定概念にとらわれず、独自のやり方を考案しました。先に梁を天井から吊り下げた状態で土台と柱を順に組み立て、最後に梁を取り付けるというもの。この手法で札幌から博多まで20店舗を手掛けました。「今までたくさん壁はあったよ。でも、どんなことがあっても打開できる。悲観したらおしまいや。次のステップを考えることが大事」と穏やかに話す光さん。だからこそ、現状を見て、未来を考えることを怠りません。それは、現在の会社に息づく精神でもあります。創立時の小さな工場から今では林業部を持ち、伐採班や製材工場、木材乾燥機を有するほどの規模に。川上から川下までの生産体制が整った、全国でも数少ない工務店となりました。
光さんは現役を退いたものの、原木市場へ買い付けに行くなどその目利きは健在。人のように木材にもそれぞれの個性があったり、木造の建物に入るといい香りがしたり、といった材木の魅力を愛おしそうな表情で語ってくれます。長年の付き合いだからこそ愛着は人一倍。「木のおかげで寿命が延びた」と嬉しそうに笑います。木とともに歩んできた歴史は、光さんの人生そのものなのです。
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井上 光
株式会社井上工務店会長
岐阜県出身。現工務店の前身となる「井上建築」を昭和40年に創業。以来、林業から建築業までを手掛け、会長職の現在も木に触れる日々を送る。