全国へ旅した“飛騨の匠”の歴史をたどる

日本は温暖多雨の気候で、北から南まで比較的植物が育ちやすい環境であるため、森林資源に恵まれています。だからこそ、昔から暮らしの中で木が使われてきました。

こうした木を加工する技術は全国各地にありますが、その中でも古くから木材加工の文化を受け継いできたのが岐阜県の北部に位置する“飛騨高山”です。

日本アルプス

日本アルプス

飛騨高山には、春と秋の高山祭の屋台、上三之町などの古い町並みの伝統建築、木材加工のスペシャリストである“飛騨の匠”の存在があります。

さらに、匠を支える乗鞍をはじめとした山々は、全市町村の中で日本一の森林資源を有しているなど、いくつもの有名な技術・背景があります。

“一位一刀彫”や“飛騨春慶”といった木工技術である匠の技も、この地域ならではの工芸です。いずれも飛騨の匠に関連しており、飛騨に森や木が欠かせないことを物語っています。

 

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こうした「飛騨の匠」や「飛騨国」が初めて書物に登場するのは、約1300年前の「養老律令」(大宝律令を改修した律と令)です。

ここに記された「斐陀国条(びだのくにじょう)」で、租庸調の税のうち庸と調を免ずる代わりに匠丁(成年男子の木工職人)を現在の飛騨から差し出すことが定められていました。つまり、税の変わりに技術を送り出す、ということを意味しています。

こうした規定は飛騨国だけに定められており、中央政権がいかに飛騨の匠の技術を高く評価していたかを物語っています。

また「養老律令」が成立する以前から、飛騨の匠が都の造営に携わっていたとも考えられています。奈良県橿原(かしはら)市には藤原宮の造営の時に飛騨の匠が滞在した名残とされる「飛騨町」の地名が今も残ります。

飛騨の匠は奈良時代に最も活躍し、平城宮や興福寺、東大寺などの造営にも加わっていたとされます。平安時代になって政治や文化の中心が京都に移る平安時代になっても匠の派遣は続き、平安中期にまとめられた法典「延喜(えんぎ)式」に政府機関の「修理職」に63人、「木工寮」に47人が配属されていたという記述が見られます。

東大寺

東大寺

約500年続いた飛騨からの匠の派遣は平安末期に自然消滅しましたが、都と飛騨との人の往来は後世にも地域の文化にも影響を残します。江戸時代に飛騨は幕府の直轄地である天領となり、江戸文化の影響を強く受けるようになります。

飛騨に根ざしていた京の文化と、天領となったことで伝わってきた江戸の文化が融合したものが、高山祭の屋台です。屋台の形の基本は江戸の流れを汲み、それを飾る織物や金具類、からくり人形は京から入っています。

余談ですが、高山祭の屋台の起源は1718年(享保3年)の記録までさかのぼります。春の山王祭と秋の八幡祭を合わせて23台が曳かれる屋台は、氏子たちが競い合うようにして絢爛豪華なものに仕上げました。優れた大工や彫師などの職人が、その原動力になりました。

飛騨の匠の技術が結集された屋台。その彫刻に名を残した名工が「谷口与鹿(よろく)」です。文政5年(1822年)に大工棟梁の家に生まれ、少年時代に彫師に弟子入り。17歳で琴高台(きんこうたい:高山市本町一丁目の屋台)の彫刻「波間に遊ぶ鯉」と「棟飾の兎」を手がけました。

その後、麒麟台(きりんだい:高山市上一之町下組の屋台)の「唐子群遊図」、恵比須台(高山市上三之町上組の屋台)のユーモラスな彫刻「海の神(手長)」や「山の神(足長)」、「笑い獅子」を手がけ、それらは今も屋台に見ることができます。

与鹿は高山から京都へ赴き、元治元年(1864年)に没します。与鹿の卓越した表現力は高山で受け継がれ、伝統工芸の「一位一刀彫」に大きな影響を与えました。

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高山祭の山車

さらに、江戸末期から昭和にかけて、飛騨一円では伝統を受け継ぎながら、新しい技術を生かした木造建築物が誕生しました。その中心にいたのが、9代続いた高山の名工、「阪下甚吉」です。8代目が建てた「高山町役場(現市政記念館)」などは現在でも目にすることができます。

古くは奈良時代頃から全国各地へと旅立って活躍し、精巧な技術で木を加工して建築物や屋台、木工品を作ってきた飛騨の匠。飛騨高山では今もなお、その伝統や技術が継承され、木造建築や家具づくり、木工の文化が盛んです。飛騨の匠の血は、脈々と受け継がれています。

そんな匠の歴史を感じられる、飛騨高山。観光だけではなく、匠の歴史を触れに飛騨高山を訪ねてみてはいかがでしょうか?